2014/7/21(月)
アイティーシー東関東支店の仲唐さんからバトンを受けました理化学の斎藤です。季節柄、ヨットの話にしました。アウトドアスポーツ人口が減ってきているので、少しでもヨット好きが増えればいいなと思っています。私の学生時代は海の格闘技と呼ばれるようなレースが主体でした。社会人になってからは楽しくクルージング、セーリングです。写真は穏やかな日、梅雨の合間の一コマです。
猪苗代湖でヨットを始め、大学で体育会ヨット部に入りました。合宿所は相模湾の葉山と荒崎でしたが戸塚ヨットスクールならぬしごきの世界でした。理不尽と思える特訓は強烈で、勉強するために大学に入ったのに、それを忘れるぐらい新鮮でした。部員が相手の足を押さえているだけで、二十メートルの高さの断崖の上の手すりパイプから恐る恐る尻を空中にせり出すのですが、心臓はバクバクで、無我夢中で腹筋を300回、恐怖心と体力の限界と戦うトレーニングでした。そうしたお互いが命を預ける訓練で、レース中はスキッパーとクルーのペアが息の合ったチームとなれるのです。訓練で手に入れた筋肉で骨を包み、荒天での度重なる打撲傷を和らげる事が出来ました。そうして、自然の猛威から命を守る為に自分の体力が必要なことを体得していきました。夜はレースや遭難のケーススタディ、艤装品の修理点検で、寝るときはバタンキュウでした。夜逃げする仲間もいたのですが、一回2週間ぐらい続く合宿は女子学生も男子と変わらずトレーニングしています。合宿所の自炊生活は実にむさくるしいものです。身ぎれいにして合宿所から都心の大学の授業に向かう時も、街の楽しい誘惑はいっぱいで合宿所に戻らない脱走者も出ました。その気持ちはわかる気がしました。
こんな風に始まったセーリングも45年続いていて、今も時々潮風を吸ってはリラックスしています。
社会人になって28か29歳ごろの事ですが、今は亡くなった先輩の一人の義父がマリーナの社長だったおかげで、空きがないのにマリーナに入会させてもらいました。結果的にもぐりこませてもらったようなものです。こうして同じ学科でヨット部から国体選手になった先輩をキャプテンとして、三浦半島の南端の『シーボニアマリーナ』をベースに、セーリングクルザー『ホリデー』号(25フィート・ブルーウォーター)で遊び始めました。その後、27フィート(8.2メートル)の『ダズ』号に乗り換えて、友人や弟も加わり今は6名です。元英国首相のチャーチルが船主だった60フィート(18メートル)の豪華キャビンを持つ『シナーラ』号も係留しています。かつてはメンバーの家族招待があり、何回か操縦させてもらいました。経済の高度成長期は船が増えて置き場は拡張になったのですが、景気後退後は閑散としています。今のヨットはフランス人設計のソレイユ ルボンで船検、修理を繰り返し20年以上乗り続けています。維持費はマリーナの年間契約料以外に3年ごとの船検代、修理、部品交換代等で馬鹿にならないのですが、みんなで頑張って維持しています。マリーナの経営会社は変わって、今は『リビエラリゾート』です。ハーバーで結婚式も行われていますので、海が好きな方は利用してみてはどうでしょうか。写真は対岸の別荘群、浮かんでいるのは錆の出たキール(船の下の横流れ防止用のおもり板)を最近になってやっと修理しお化粧してあげたわれらの愛艇です。
毎年、夏休みは伊豆諸島(大島、式根島、神津島、三宅島)や伊豆半島を廻っています。黒潮と南風を切り裂いてタック(方向転換)しながら南下していきます。何もない海上を走っているときイルカやトビウオに出会うと親しみを感じ癒されます。イルカは100頭近い大群でヨットに近づいて来ますが一頭一頭がうまくよけてくれます。隠れるところがないヨットの上では太陽に焼かれて燻製になりそうです。皮膚が太陽でやけどして病院に行ったこともあります。逆に荒れた日は波が高くてヨットのマストのてっぺんが隠れるほど波に翻弄されます。マストを支えるいくつものハリヤード(鋼線)がヒューヒューと鳴き声を出します。横殴りの風雨でまるで視界がない時は、コンパス(磁石)とラジコンを頼りに潮の強さと風向きから現在地を割出し、針路を判断していました。今のようにGPSがあれば良かったのですが。船酔いを通り越して、ほかの仲間は胃には何も残っていないのに、私は鈍いのか、体力を維持する食欲は失わないので、鉄の胃と呼ばれて不思議がられています。ウイスキーを口にしては、ずぶ濡れの体温を維持しました。真っ白な世界で7、80メートル先に突然、大型貨物船が現れたり、流れる材木に体当たりしたり、極度の緊張は荒天が去るまで一日続くこともありました。ある時、追いかけられる台風から逃れようと北上したのですが、ヨットの速度が遅く真っ暗な夜中に命からがらで大島波浮港に入港したこともありました。その時は知り合いの島の漁師の方々や海上保安庁には多大な心配をかけました。また大島に南下する時、島の東側は三原山の吹き降ろしが強く、強い海流が混じり合い三角波が立ちやすい海面です。そこで方向性を失うほどもまれ続け、絶え間なく飛び込む海水を浴びながら、3時間格闘しました。その時は命の境目を見たようでした。海の神ネプチューンに自分を捧げる気持ちになりました。その時は家族が瞼に浮かび、今まで好きなことをさせてくれてありがとうと感謝していました。波をかぶり続けて冷えきった体で格闘しているのに、一瞬安定感を取り戻すと、疲労で自然に眠くなります。恐怖心は消えて心は穏やかになっていくような不思議な感覚になったことを覚えています。海難も冬山の遭難に似ているのではないでしょうか。それは人に迷惑となる大恥であり、経験が少ないのに体力に対する慢心から来る馬鹿気の至りでした。思えば当時は身勝手なものでした。小さな生命体である人間は当然、自然の猛威に逆らっては生きていけません。最近は休暇日数や体力も考えて大島までにしています。
うれしいこともたくさんあって、荒天でもがいている海上で、偶然出会った漁師のアドバイスや親切に助けられたことは忘れられません。年老いた島の宿の親父に誘われて、夜明け前に出港して漁の手伝いをしたこともあります。島の漁師からは海と折り合いをつけていくことや、海に対する畏敬の念を教えられました。荒天の出帆時にその真っ黒に光る島の親父が、気を付けろよ、無理するな、着いたら電話くれよと見送ってくれるときは胸がぐっと来たことも覚えています。私の大学時代は粛清やゲバを繰り返す学生運動の時代でした。そんな時代にそれまでは接したことがない老漁師の親切や寛容さ、熟練のすごさが若かった心に響きました。また、島の漆黒の闇の中で堤防に寝転がって観る夜空は感動的でした。満天星のきらめき、数分おきの流れ星、ゆっくりと移動する人工衛星などには宇宙の深さや広さ、神秘を思い知らされ、興奮しました。航海の最後に、南から黒潮に乗って北上する時、ラジオの電波が入り始めると東京の渋滞情報が聞こえます。日常に戻りたくなくて、みんなの顔が沈んできます。
サンデークルージングはその日の天気図と風と波の状態を見て出帆を決めます。都内は静かでも海上では風と波が強いことがあります。その時はセーリングをあきらめて掃除をして帰ります。安全第一。今となっては、写真のような好々爺をやっています。孫と乗れるとは夢にも思わなかったし、15年くらい前からは7つ若い弟が船上の肉体作業をしてくれることになり、感謝しています。女性軍は紫外線に弱いらしく、最近は来なくなってしまいました。
不思議な縁を一つ、同じ理化学の佐藤さんがオフィスの机も隣なら、ヨットでも私たちの隣のヨットのクルーをやっているとは、まさにスモールワールドです。一緒に乗った事がありますが、彼は鍛えた筋力で素早いロープワークをこなし、レースで活躍しています。
少し、話題を変えて、サッカーのワールドカップならぬヨットの4年に一回の歴史ある国際レース『アメリカスカップ』にちなむ話です。近代オリンピックより古いレースです。忘れがたい思い出ですが、サンフランシスコ駐在時代に2000年シドニーオリンピックのヨットのアメリカチームの壮行会が湾の北側にある『サンフランシスコヨットクラブ』であり、招待されて出席した時のことです。1992年『アメリカスカップ』に『ニッポンチャレンジ』チームが初めてチャレンジしてから3回目の2000年の頃でした。個人的に『ニッポンチャレンジ』に寄付をして応援していましたので、オーストラリア沖のレースを、サンフランシスコでPCの動画中継にくぎ付けになりながらハラハラして観ていました。そんなこともあり『アメリカスカップ』直後のオリンピック壮行会ではアメリカ選手へ激励の言葉をかけたり握手する時は複雑な気持ちでした。自分はどっちを応援しているのかわかりませんでした。さらにうれしいこともありました。クラブのコモドア(海軍提督と呼ぶ経営支配人)に案内された部屋である日本人を称賛してもらったのです。それは52年前の1962年、太平洋をたった19フィート(5.8メートル)の小さなヨットで渡った堀江謙一さんです。今もその『マーメード号』は現地の海事博物館に展示してあります。堀江さんが持参したという薄汚れた小さなペナントを指差しながら、その勇気をたたえると、何回も素晴らしいと繰り返していました。私も日本人に誇りを感じたものです。ついでにサンフランシスコヨットクラブのペナントにコモドアがサインしてくださって、今も自宅に飾っています。クラブメンバーのギリシャ人のヨットに遊びに行くたびに、その地域に住む日本人達を呼んでくれて、その時の日本人同士で話す日本語のニュアンスは楽しいものでした。湾側の野球場の北側の桟橋群の中に『ランデブー』という80フィートのヨットがあり、現地社員や日本人の友人を招待して、何回かチャーターしました。出入りに動力を使うとき、日本発行の小型船舶一級免許で世界に通用しました。安全な日には1メートル以上ある舵輪を回す醍醐味も味わいました。ゴールデンゲートブリッジの下からアルカトラス島の周りは潮と風がとても速いことで有名です。空は真っ青に晴れていても、大粒の霧がバシバシ降りかかる日もあり、しぶきや波がかかることがほとんどで、静かな日はありませんでした。
そんな頃、アメリカ人の女性クルーだけのシンジケート(チーム)があり、そのベースキャンプが湾の何番目かの桟橋にあって、自分は『ニッポンチャレンジ』チームを応援しながらも、週末になると訪問し記念グッズを買っては応援していました。そのチームはたくましい女性達がそろっていて、訓練を重ねていたにも関わらず、チャレンジ艇を決めるレースで敗退してしまいました。出場するシンジゲートは、一回に20億円から100億円かかるため、『ニッポンチャレンジ』はスポンサー資金が続かず、4回目以降は挑戦できていません。日本人では初めての世界に通用する外洋レースの名スキッパーである難波誠さんは1992年と1995年の2回、『ニッポンチャレンジ』を引っ張った人ですが、1997年4月23日、沖縄からの外洋レース『SAIL OSAKA』出場中に荒天にあい和歌山沖で落水して消息を絶ちました。ユーモアがある大きな人で雲の上の憧れの人でした。その後の人材不足も大きく影響しています。次の35回『アメリカスカップ』決勝戦は2017年の9月、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの南側にある『ゴールデンゲートヨットクラブ』がデフェンダーで、現地で行われます。見に行きたいと楽しみにしています。NHK-BSでも放送すると思います。今は双胴艇(カタマラン)が主流で国家の威信をかけた最先端技術を駆使しないと勝てなくなりました。実際に海面を猛スピードで飛んでいるそうです。ニュージーランドが初めてアメリカからカップを奪取した時もそうですが、現地の海に合わせた流体力学や材料学などの技術戦の歴史です。もともと1851年ロンドン博覧会のときイギリスではじまったレースですが、招待されたアメリカが科学技術に勝りカップを持ち帰ったために、それ以来『アメリカスカップ』と呼ばれています。挑戦シリーズ(予選)は前年から始まり『ルイヴィトンカップ』と呼ばれ、スポンサー名がついています。
『仕事の達人』『遊びの達人』『人生の達人』のように思う存分チャレンジして、楽しんで、後悔しないように、我が社の『社員三訓』を目指したいと思っています。仕事も忍耐強く限界まで挑戦すれば、目標を達成するに違いないと信じつつ、終わりにします。長々とお付き合いくださいまして有難うございました。