6月下旬のある日、つくば地区のユ-ザ-で行っていたデモの装置を引き取りに向かう途中、アイティ-シ-㈱の斎藤部長より携帯電話に連絡がありました。ああ、もしかすると先日発表されたサ-モ社の安全キャビネットの件かなと思いながら話し始めたところ“徒然なるままに”の寄稿を依頼するとの内容でした。いつかは寄稿することになるので、快諾とはいかないまでも承知致しました。原稿の締切までは1ケ月あるとのことでしたからのんびり構えていましたが、本社の村田さんから連絡が入り、締切は7月7日(月)とお聞きし慌てて本稿をまとめてみました。
6月29日(日)に行田市で行われた「万作の会」という狂言を観劇に行きました。出演者は人間国宝の野村万作・萬斎親子でした。冒頭、野村萬斎氏による狂言の観方についての解説があり、楽しく観劇することができました。後で知ったのですが、狂言は古典的な漫才で、能の合い間に行われるものであるそうです。この「万作の会」は昨年に続き2年連続で行われています。行田市長が文化の町を標榜し盛んに文化活動を行っているのです。この「万作の会」と行田市との関わりは2012年公開の映画「のぼうの城」が縁であり、行田市長が主人公成田長親役の野村萬斎氏に申し入れ公演が実現したと聞いています。
「のぼうの城」は、この行田市にあった忍城のことで、豊臣秀吉の小田原攻めの一貫として行われた忍城水攻めの攻防をエンタ-テイメント的に描いた作品です。地元の歴史が映画化されため、映画の中には聞き慣れた地名が数多く出てきます。そのなかに下忍村の“たへえ”という人物が出てきますが、この下忍村こそ私が現在住んでいる現鴻巣市下忍なのです。当時の下忍村は、現在の行田市と鴻巣市にまたがっていて、昭和の大合併により、二つに分かれました。
天正18年6月、城攻めの総大将は石田冶部少輔三成、参謀に大谷形部少輔吉継と長束大蔵大輔正家といったそうそうたる面々で、2万の大軍が忍領に攻め入りました。一方、忍城方は城主成田氏長の従兄弟の成田長親を総大将とし、兵力は一千騎、勝てるはずがない戦が始まろうとしていたのです。このとき城主成田氏長は関八州の覇者、小田原城主北条氏直の求めに応じ出陣しており、城を留守にしていました。
いくさの前の交渉で戦いに決した双方は、それぞれ陣立てて、いくさに備えました。当初、地の利を得た忍城方の優勢でいくさが始まったようです。2万の大軍をしてなかなか攻め落とせない忍城ですが、落ちない要因としてこの城が湖沼や深田に囲まれているためでありました。攻める兵が足をとられ自由に動きまわることができないのです。城に通ずる道も湖沼や深田があるがため限られてしまいます。守り手はそれらの道を重点的に守備固めしたのです。別名、忍城は忍の浮城と呼ばれ戦国の名将上杉謙信が武蔵の国に侵入してきた折も、攻めに手こずったとの記録が残されています。忍の武将は坂東武者の末裔であり、城に籠城した周辺の百姓も元を正せば武士で帰農したひとびとでした。嫌が負うにも士気が高まったのでしょう。なかなかの奮戦であったようです。
現代の忍城址と郷土史博物館(行田市観光課ホ-ムページより)
ところで、この映画のタイトルが「のぼうの城」となっていますが、「のぼう」とは「でくのぼう」のことで、「でく」を省略したものです。「のぼう様」とは成田長親のことを指します。和田竜の小説のなかでは、領民にそう呼ばれていたと書かれています。田んぼや畑仕事が好きなのですが、なにをやらせてもうまくできない無能労働者(和田竜氏)なのです。田んぼのあぜ道に座っては百姓の田仕事を見ていて手伝いの求めくるのを待っています。しかし、百姓は前年の長野村(忍領の一部)での騒動(のぼう様に田仕事を手伝ってもらったがために田んぼが大なしになってしまった騒動)を聞き、手伝ってもらうことを敬遠しています。
このような行動や言動のためか「のぼう様」と、半分バカにした呼ばれ方をされます。しかし、どこか憎めない性格の持ち主が主人公なのです。
この「のぼう様」成田長親役を演じたのが野村萬斎氏です。狂言の公演を見て分かったのですが彼のセリフの言い回しが、狂言のそれと同じであることに気づきました。この萬斎氏の面白い言い回しにこの映画のエンタ-テイメント性を感じます。
話をもとに戻すことに致します。忍城をなかなかうまく攻めきれない状況に至り、丸墓山に陣取る三成の思いついた作戦が水攻めでした。この戦法は、天正10年5月、豊臣秀吉が備中高松城を落とすときに用いた戦法で、三方を山に囲まれた高松城の周囲に堤を築き川の水を流し込みました。城のまわりが水没し地域とやりとりを遮断させ城の兵糧が尽きるのを待つという戦法です。この戦法をかねがね自分でやってみたいと考えていた三成は、大谷吉継らの反対を押し切って実施するのです。大谷吉継が反対した理由は、加勢しに参集してきた武将の手柄を立てる機会が失われることとなり、武将らの戦意を削いでしまう恐れがあるためです。これまで手柄を立てのし上がってきた戦国武将には、面白くないことはよくわかります。
かくして天正18年6月、忍城水攻めが行われます。武蔵の国忍城は、北に利根川、南に荒川に挟まれた低湿地帯にありました。季節はちょうど梅雨時です。忍城のまわりに堤を築き、両河川の水を流し込んだのです。たちまち水は城下を飲み込み、本丸に迫ってきました。この堤は地元で石田堤と呼ばれていて、現在でも一部その名残があります。ちょうどその石田堤の内側に、我が家があることになります。世が世であれば、我が家も水の底だったかもしれません。やがて、堤は領民によって切くずされてしまいます。もはや三献茶の男から脱却したい三成はがっかりしたことでしょう。
すこし前に戻るのですが、三成が陣取った丸墓山について少し触れておきたいと思います。この丸墓山は、忍城より東南の方向約1kmくらいの距離にあり所謂古墳です。この地域は古墳が多く存在し、さきたま(埼玉県の県名由来の地)古墳群と呼ばれています。昭和53年には古墳群のなかの稲荷山古墳で金錯銘鉄剣が発見され国宝に指定されました。現在、行田市のさきたま史跡の博物館に展示されています。
石田三成が陣を構えた丸墓山 行田市観光課ホ-ムペ-ジより)
さて、そうこうしているうちに、何てことか小田原城が豊臣側に落ちてしまいます。このことを知らない忍城ではなおいくさが続いていました。しかし、やがて小田原城が落城したことを知った忍城は、開城し和平交渉を始めます。秀吉の小田原攻めで唯一落城しなかった城として後世に伝わっています。
最後に、私が住んでいる鴻巣市下忍(正確には旧吹上町下忍)には、「のぼうの城」にも登場することを先ほども記しましたが、石田堤の一部が史跡公園として残っています。この石田堤の周辺を造成して町民プールを建設する際、複数の人骨が出てきたと、町の郷土史家から聞いています。勝手な思い過ごしかもしれませんが、私はこれらの人骨はもしかしたら、忍城水攻め際に戦死した兵の亡骸ではないかと想像しています。近くにはさきたま古墳群もあり、歴史に思いを馳せる史跡が私の歴史好きに火をつけます。
(現在に残る石田堤 行田市観光課のホ-ムペ-ジより)
今度、機会がありましたら埼玉県行田市、鴻巣市を訪ねてみてください。歴史のかけらがあちこちにあります。歴史の一部を感じることができるでしょう。
㈱マイクロ・エッヂ・インスツメント 熊 野 栄 一